歴代校長先生からのメッセージ
40年。
私が浦和からカナダを経て青森に帰って来たときが、丁度学園創立40周年でして、今と同じように青森の同窓会から新聞の寄稿を願われたのでした。あの時は、イスラエルがエジプトを出て40年間荒野を彷徨った後、約束の地に立った慶びと学園の40周年を対比して感謝したのでした。あるいはエリアが40日間歩いて、その間、烏に養ってもらったことと関連させて神の摂理を書いたような記憶もあります。いずれにしても今、浦和明の星が開校して40周年ですから思いが重なってもおかしくはないでしょう。過去に返る習慣をなくしていましたが、「烏に反哺の孝あり」で、お礼のつもりで、固くなった脳に酸素を送って蘇った記憶を書いてみましょう。
一期生はどちらかというと物静かな雰囲気でしたが、私はこの12名を思う度にアブラハムを思うのです。海のものとも山のものとも解らない新設高校に挑戦するのですから余程の勇気が必要です。期待と信頼とチャレンジ精神が彼女らを結びつけていました。そしてそれは我々教師たちを奮起させるもとでもありました。私たちには、12名で学校は成り立っていけるのかとの不安は最初からありませんでした。これは大きなことです。浦和明の星の創立の責任者である当時の管区長の強い信仰、創立に関わる盤石の信念のお蔭です。次の言葉は私たちの支えでした。
《 神様がお望みならば続きます。お望みでなければ潰れます 》
明の星は神様のお望みで続いているのです。それにキリストの教会の基礎も12名の使徒でしょう?
二期生が加わると校舎全体が活きてきて、未使用の教室までもが生き物のように活気づきました。開校2年目の運動会は、百十数名なのに一般の学校と変わりない種目。それに自分たちのアイデアを加えた出し物で、一人何種目も出なければなりませんでした。夕暮れ近く金星が輝き始める頃、「ご覧下さい明の星が輝いています」との声に時間を忘れていたことに気づく始末。 昂揚は極に達し、誰かが「来年の入試を妨害しよう」と言い、みんなは爆笑しました。 少人数でやり遂げた喜びにみんな陶酔したかのようでした。そんなことしたら今の40周年はありませんよね。でも、その活力と創造の喜びの共有が40周年を迎えさせたと言えるのかもしれません。
あの時の17歳は、今もそれぞれの 「生」 を、あの時の活力で生きているに違いないと信じています。今年の6月14日の「折々の歌」に紹介された次の歌をご覧下さい。
《 人間ができるまで十七年か七十年かは人によりけり 》(小池光「時のめぐりに」所収)
この歌に出会った時私は、代弁者に会ったと雀躍しました。私も七十を過ぎました。
最後にこの原稿をご依頼くださった同窓会に感謝いたします。お陰様で共に生きたあの時にフィードバックするチャンスを頂きました。過去を顧みることは未来への責任であるとおっしゃったのは前教皇ヨハネ・パウロⅡでした。
母校創立25周年記念式典にて(1991)
ご在職期間・・・昭和42年4月~昭和47年3月
お住まい・・・弘前市